幼少期の田中角栄

新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。ただし、長兄は夭逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。

田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。
幼いころ吃音があり、浪花節を練習して矯正した。

15歳の田中角栄

二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)卒業。
小学校時代から田中は勉学にすぐれ、ずっと級長をしていたという。高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ

卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、その後柏崎の県土木派遣所に勤めた。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という

16歳の田中角栄

「理化学研究所の大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京。だが、東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた。
一時は、海軍兵学校入学を目指して研数学館や正則英語学校などにも通ったが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えた

18歳の田中角栄

中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。

これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベーターに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。

21歳の田中角栄

1939年に陸軍騎に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。
内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるように。

27歳の田中角栄

理化学興業の工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。
敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。田中土建工業は戦災を免れる。

28歳の田中角栄

田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金をおこなったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補。
誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選。

29歳の田中角栄

日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位で当選。

9月に長男正法4歳で死亡

11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。

30歳の田中角栄

第2次吉田内閣が発足。新内閣で田中は法務政務次官に就任。

まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾決議を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。
田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。

12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。

32歳の田中角栄

長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化の要望を受け、1950年10月に同社の社長に就任。
田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる。
それまで弱かった三島郡で支持を広げることとなった。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。

39歳の田中角栄

第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。

戦後初めて30歳代での大臣就任。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 – キー局 – ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことは、その後の田中の飛躍の原動力になった。

54歳の田中角栄

5月 – 佐藤派から田中派が分離独立。
6月 – 『日本列島改造論』を発表。
7月5日 – 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選。
7月6日 – 第1次田中内閣が成立。

9月 – 中華人民共和国を訪問。首都北京で周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化が実現し、日華平和条約の終了を確認

58歳の田中角栄

2月 – ロッキード事件発生。アメリカの上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。7月27日に、同社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。

当時のニュース

65歳の田中角栄

ロッキード事件の一審判決、懲役4年、追徴金5億の実刑判決で即日控訴
第37回総選挙、自身は圧倒的支持で当選するが、自民党は大敗、田中批判で立候補した野坂昭如も落選
一連の流れを受け、中曽根総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」と声明を発表

75歳の田中角栄

第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。

12月16日 – 慶應義塾大学病院にて75歳で死去

田中角栄の名言・格言

田中 角栄(たなか かくえい、1918年(大正7年)5月4日 – 1993年(平成5年)12月16日)は、日本の政治家、建築士。

衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)等を歴任した。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/67/Tanaka_Cropped.jpg

田中角栄の名言・格言

「政治は数であり、数は力、力は金だ」
「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」
「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る」