アドルフ・ヒトラーの名言・格言

アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889年4月20日 – 1945年4月30日)は、ドイツの政治家。ヒットラーとも表記される。指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いた。

ヒトラーの残した言葉

「大衆の多くは無知で愚かである」

「熱狂する大衆のみが操縦可能である。」

「圧制はただ圧制によってのみ、そしてテロはただテロによってのみ破ることができる」

「人々が思考しないことは、政府にとっては幸いだ。」

「わたしは間違っているが、世間はもっと間違っている」

8歳のアドルフ・ヒトラー

父の事業が失敗し、一家はオーストリアへ戻る。
一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。8歳のヒトラーはベネディクト修道会系の小学校に移籍し、聖歌隊に所属するなどキリスト教を熱心に信仰して、聖職者になる事を望んだ。修道会の彫刻には後にナチスの党章として採用するスワスチカが使われていた。本人によれば、信仰心というよりも華やかな式典や建物への憧れが強かったようである

17歳のアドルフ・ヒトラー

遺族年金の一部を母から援助されてウィーン美術アカデミーを受験するも不合格。以降、下宿生活を続ける。
アカデミー受験に失敗した時に学長に直談判し、人物デッサンを嫌う傾向から「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と助言された。

「画家から建築家へ望みを変えてから、程なく私にとってそれが困難である事に気が付いた。私が腹いせで退学した実科学校は卒業すべき所だった。建築アカデミーへ進むにはまず建築学校で学ばねばならなかったし、そもそも建築アカデミーは中等教育を終えていなければ入校できなかった。どれも持たなかった私の芸術的な野心は、脆くも潰えてしまったのだ…」

ヒトラーが書いたとされている絵画

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出典;http://netgeek.biz/archives/51068

18歳のアドルフ・ヒトラー

母親クララを乳癌で失った。
ヒトラーにとって、癌の治療は特別な意味を持っていた。

後年、厚生事業のスローガンとして「健康は国民の義務」を定め、喫煙に対しても反タバコ運動を積極的に行った。環境や職場における危険を排除し(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。

22歳のアドルフ・ヒトラー

遺族年金を妹に譲るように一族から非難され、仕送りが止まる。水彩の絵葉書売りなどで生計を立てる。
このころヒトラーは食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔していたとされる。また暇な時に図書館から多くの本を借りて、歴史・科学などに関して豊富な、しかし偏った知識を得ていった。

24歳のアドルフ・ヒトラー

徴兵検査の対象年齢から外れた事で隣国ドイツの南部にあるミュンヘンに移住し、仕立て屋職人ポップの元で下宿生活を送った。徴兵検査の義務はなくなったが、逆に期間内に徴兵検査を受けなかった事で兵役忌避罪と、その事実を隠して国外に逃亡するという二つの犯罪を犯した立場となった。
翌年にそれが発覚し、強制送還されるが「不適合」として徴兵されず。

29歳のアドルフ・ヒトラー

マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監、入院中に第一次世界大戦が終結する。ヒトラーは第一次世界大戦がドイツの降伏で終結した時に激しい動揺を見せた兵士の一人であったという。

30歳のアドルフ・ヒトラー

前年に成立したバイエルン・ソビエト共和国共和国軍にスパイとしてスカウトされる。
ドイツ労働者党への潜入調査を担当する。
ヒトラーはこの時に初めて大学でゴットフリート・フェーダーなどの知識人の専門的な講義を聴く機会を持ち、潜入調査に必要な教養を与えられた

31歳のアドルフ・ヒトラー

潜入調査をするるもヒトラーはドイツ労働者党で党首アントン・ドレクスラーの反ユダヤ主義、反資本主義の演説に感銘を受けて逆に取り込まれてしまう。
、軍を除隊。党は国家社会主義ドイツ労働者党に改名される。
1921年党内抗争で初代党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、第一議長に就任

45歳のアドルフ・ヒトラー

突撃隊幹部を粛清して独裁体制を強化(長いナイフの夜)。ヒンデンブルク病没。大統領の職能を継承し、国家元首となる(総統)。
ラインハルト計画により、1933年には600万人を数えていた失業者も1934年には300万人に減少している。
一方で新聞の統制化も行い、1934年には三百紙の新聞が廃刊となった。営業不振となった新聞社・雑誌社はナチ党の出版社フランツ・エーア出版社に買収され、情報の一元化が進んでいった。
翌年、公務員・一般労働者が右手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と挨拶することや、公文書・私文書の末尾に「ハイル・ヒトラー」と記載することが義務付けられている。

47歳のアドルフ・ヒトラー

非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。ベルリンオリンピック開催。

当時の最新メディアであったラジオやテレビ、映画などを活用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた(国民ラジオ)。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を制作させている。

50歳のアドルフ・ヒトラー

チェコスロバキアへ武力恫喝、チェコを保護領に、スロバキアを保護国化(チェコスロバキア併合)。同年に独ソ不可侵協定を締結、ポーランド侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発する。以降大半を各地の総統大本営で過ごす。

51歳のアドルフ・ヒトラー

ドイツ軍がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻。フランス降伏後、パリを訪れる。

アウシュヴィッツ強制収容所がつくられた。
終戦までに約150万人が亡くなったとされている。

52歳のアドルフ・ヒトラー

ソビエト連邦に侵攻を開始(独ソ戦)。年末には日本に追随してアメリカに宣戦布告。翌年、ドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づける。
軍事指導に異常な程の熱意を注いだ事も、他の独裁者に比べて顕著であった。
大戦中期間、ほとんどを前線に近い総統大本営で好んで過ごした。また1942年からは自ら陸軍総司令官を兼任、1942年9月から11月までは前線のA軍集団司令官を兼任して指揮するなど元首として異例の行動をとった。

56歳のアドルフ・ヒトラー

4月29日、親衛隊全国指導者ヒムラーがヒトラーの許可を得ることなく英米に対し降伏を申し出たことが世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。ヒトラーは激怒し、ヒムラーを解任するとともにその逮捕命令が出されたが、もはやドイツ国内はその執行すらできない状態であった。

遺書をタイプした後の午前2時、長年の恋人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げた。そして4月30日、毒薬の効果を確かめるため愛犬ブロンディを毒殺した後、午後3時に妻エヴァと共に総統地下壕の自室に入り、自殺した。