斉彬の江戸参勤に際し江戸詰に任ぜられ江戸に赴く。御庭方役となり斉彬から直接教えを受けるようになる。
カテゴリー: 軍人
30歳の西郷隆盛
京都で斉彬の訃報を聞き、一度は殉死しようとしたが、僧である月照に説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。
安政の大獄で終われ、月照とともに入水も奇跡的に西郷は助かる。
藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居することになった
34歳の西郷隆盛
奄美大島から帰還も、同年寺田屋事件で薩摩の攘夷派が島津久光に粛清され、久光の怒りを買い今度は徳之島へと流された
36歳の西郷隆盛
禁門の変が起こり,西郷隆盛は薩摩藩の軍隊を率い、長州藩に勝利
38歳の西郷隆盛
坂本龍馬らの仲介で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結部
40歳の西郷隆盛
戊辰戦争では東征総督府参謀として指揮、江戸幕府の勝海舟と交渉して、江戸城の開城を実現
43歳の西郷隆盛
岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らが欧米に出発 (岩倉使節団)、太政大臣・三条実美、参議・西郷らに留守内閣が任される
45歳の西郷隆盛
征韓論を唱えるが、日本へ帰国した岩倉使節団の大久保利通らに意見を退けられたため、明治政府を辞職、故郷の鹿児島へ帰る。
同調した政治家・軍人・官僚600名余りが大量辞任(明治六年の政変)。
49歳の西郷隆盛
武士の不満が高まるなか西南戦争が勃発。破れて自決。
遺体は山縣有朋の検分の後に手厚く葬られた。
幼少期のペリー
マシュー・カルブレイス・ペリー
ロードアイランド州ニューポートでアメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラの間に三男として生まれる。
兄は米英戦争に従軍し、アメリカ海軍に決定的な勝利をもたらし「エリー湖の英雄」と呼ばれたオリバー・ハザード・ペリー。
15歳のペリー
海軍入隊
18歳のペリー
米英戦争に2人の兄とともに参加する。
25歳のペリー
フリーメイソンに加入した
39歳のペリー
ニューヨーク市ブルックリン区にあるアメリカの造船所、ブルックリン海軍工廠の造船所長となる
43歳のペリー
アメリカ海軍2隻目の蒸気フリゲートフルトン号を建造し、同年海軍大佐に昇進した。
52歳のペリー
米墨戦争が勃発すると、後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令として参加、メキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮、後には本国艦隊の司令官に昇進した。
蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)とたたえられ、海軍教育の先駆者とされている。
57歳のペリー
1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた。そこでは、以下のように述べている。
・任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
・日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
・中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」
・オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。
58歳のペリー
東インド艦隊司令長官に就任、日本開国へ向けて交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を与えられた。同年11月、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港・上海・琉球(沖縄)を経由した。
59歳のペリー
1853年7月8日、浦賀に入港した。7月14日、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」と狂歌に詠まれた。
60歳のペリー
中国で太平天国の乱が起こり、アメリカでの極東事情が変化する中、1854年2月13日に7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求め、3に神奈川で日米和親条約を調印した。
幕府へ電信機と模型機関車を献上した。
4分の1の大きさの蒸気機関車の模型は、円形のレールの上を実際に走らせ、人々を驚かせた。同模型は、1872年に工部少輔の山尾庸三が京都博覧会で展示するため、正院に払い下げを求め、調査の結果、幕府海軍所が保存していた時代に火災によって失われたことが判ったという
電信機の電線を1km程引き、公開実験を行った。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。針金を通して一瞬にして言葉を送る機械に、当時の人たちは大変驚いた。このエンボッシングモールス電信機は逓信総合博物館に伝わる。
またその後、那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。
晩年のペリー
帰国した後は遠征記などを記す。晩年は鬘を着用していた。また、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていた。1858年3月4日ニューヨークで死去、63歳だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にあり、娘アンナとともに納められている。