40歳の福澤諭吉

大久保利通と会談。大久保は諭吉のことを民権論者の首魁のように思っていたのでそれを否定し会談を終えた(「面白」(流石有名に恥じず。大久保の日記。)による)が、大久保は出版検閲の権限を文部省から内務省に移管したことで、秋山恒太郎が官吏を移動するという災難に遭った。これを見た諭吉は、『民間雑誌』に「内務卿の凶聞」という社説を大久保暗殺後に掲載。これが問題となり、編集長の加藤政之助が内務省警視局に呼び出され、『民間雑誌』は廃刊となる。
そこで目を付けたのが、薩長藩閥では無い、大隈重信の存在だった。諭吉は大隈を頼りに統計院(後の内閣統計局)を設立させる。統計院にはある秘密があり、設立直後から「憲法の調査立案」というおよそ統計と関係の無い機能を併せ持っていた。ここに、矢野文雄・犬養毅・尾崎行雄といった人材を投入し、大隈のブレーンとして活躍できるようにした。

45歳の福澤諭吉

「慶應義塾維持法案」を作成し、自らは経営から手を引き、渡部久馬八・門野幾之進・浜野定四郎の3人に経営を任せることにした。この頃から平民の学生が増えた事により、運営が徐々に黒字化するようになった。
交詢社を結成、専修学校(現専修大学)の創設に協力

46歳の福澤諭吉

明治十四年の政変(憲法制定論議の中でのビスマルク憲法派と議院内閣制派との対立)
伊藤博文と井上毅により大隈重信とそのブレーンの慶應義塾門下生が政府から一掃される。
諭吉は、この事件に際して人生で最も長い手紙を伊藤と井上馨に送った。 この手紙に対して井上は返事の手紙を返したが伊藤は返答しなかったらしい。
さらに井上が大日本帝国憲法・皇室典範・教育勅語・軍人勅諭の起草全てに参加したため、諭吉は伊藤と井上馨との交際を絶つこととなった。

59歳の福澤諭吉

1894年 日清戦争。諭吉は終始、時事新報での言論をもって熱心に政府と軍を支持して戦争遂行を激励した。
日清戦争後の晩年にも午前に3時間から4時間、午後に2時間は勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったという。この頃までには慶応義塾は大学部を設けて総生徒数千数百人という巨大学校となっていた。また時事新報も信用の厚い大新聞となっていた

64歳の福澤諭吉

意識不明で倒れるが約1時間後に回復。
19世紀と20世紀の「世紀送迎会」を開催。風刺画などで19世紀を振り返り、20世紀の幕開けとともに「儒学者の夢」「階級制度の弊害」「蓄妾の醜態」という3枚の風刺画に一斉射撃して点火、「二十センチュリー」という花火が夜空に浮かび上がるなど趣向を凝らしたものであった。

吉田松陰の名言

日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。

「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし  生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

などの名言を残した

吉田松陰についての講座の紹介

 

29歳の坂本龍馬

1863年

勝海舟の尽力により、脱藩を赦免される。

松平春嶽に千両(一説には五千両 約11億円?)を借りる。

将軍家茂が神戸海軍操練所と神戸海軍塾の設立を許可、同年、海軍塾塾頭をつとめる。

31歳の坂本龍馬

1865年

薩摩藩の援助により、長崎で亀山社中、後の海援隊を結成。

中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。

長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。

この年に同郷の武市半平太、切腹。

32歳の坂本龍馬

1866年

龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる。
伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷。(寺田屋遭難)
桂に求められて盟約書の裏書を行う。
負傷治療のために妻お龍と共に鹿児島を旅行する。
第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。

将軍・家茂が死去し、慶喜が将軍になる。

33歳の坂本龍馬

土佐藩参政後藤象二郎と会談。亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称。
この時「世界の海援隊でもやりますかな」と言ったとされている。

購入した海援隊運用船いろは丸が紀州藩船と衝突して沈没。御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。

後藤象二郎とともに船中八策を策定。
薩土盟約成立。
大政奉還成立の1ヶ月後、京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される。