日本の第122代目の天皇(一世一元制では日本最初の天皇)。
「日本人としての心を常に磨きなさい。たとえ世の中が安泰の時代であろうとも。」
「空に届きそうなほどの高い山であろうとも、登ろうとする想いさえあれば道はみつかるものだ。」
「たとえ他人よりも遅れをとろうとも、正しき道を踏み外してはならない」
「どれだけ家が富み飽くほどの財産を築いたとしても、この世における自身の務めを怠ってはいけない。」
日本の第122代目の天皇(一世一元制では日本最初の天皇)。
「日本人としての心を常に磨きなさい。たとえ世の中が安泰の時代であろうとも。」
「空に届きそうなほどの高い山であろうとも、登ろうとする想いさえあれば道はみつかるものだ。」
「たとえ他人よりも遅れをとろうとも、正しき道を踏み外してはならない」
「どれだけ家が富み飽くほどの財産を築いたとしても、この世における自身の務めを怠ってはいけない。」
11月に京都石薬師・中山邸で次男として生まれる。
父は孝明天皇(121代目天皇)で母は中山慶子(父は権大納言・中山忠能)。
御称号(皇族における幼少時の呼び名)は祐宮(さちのみや)。
1歳の時に黒船が来航。
親王宣下を受ける。
※親王宣下とは皇族の男子に親王の地位を与えること(女子は内親王)。
諱名は睦仁(むつひと)。
禁門の変が起こる。
尊皇攘夷派の長州藩と公武合体派の薩摩藩・会津藩の間で起こった武力衝突。
前年に起こった八月十八日の政変によって京都から追放された長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職であった松平容保を排除するために京都で市街戦を展開する。
この事件の後に、宮中に300人ほどの不審者侵入するという事件が発生し、睦仁はパニックに陥り失神したと言われている。
即位。
父の孝明天皇が崩御したため、14歳で即位する。
江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が朝廷に政権を返す(大政奉還)。
明治時代の開始。
1月に王政復古の大号令を発し新政府を樹立する。
4月には京都で鳥羽・伏見の戦いが勃発する。
同じく4月に五箇条の御誓文(新政府の基本方針)を発布し、閏4月には政体書(新しい政治制度)を発布する。
この中で、元号を「明治」に改めて一世一元制(天皇1人につき元号1つ)を定める。
また、江戸を東京に改称。
中央政権の確立。
版籍奉還(藩の所有していた土地・人民を朝廷に返す)と廃藩置県(藩を廃し府・県を置く)を行う。
また、神道を国教として天皇を主体的君主とした。
戊辰戦争が終わると蝦夷を北海道に改称し日本に編入する。
明治天皇が西洋風に髪をすると日本国民も髪を切る者が増えた。
外交にも力を入れ、英国のヴィクトリア女王の子であるアルフレートが訪日した際には会談している。
天皇として国内の対立を調停する。
征韓論論争の際には勅旨(天皇の命令書)を出して朝鮮への派遣を中止させる。
自由民権運動の際には立憲政体の詔を発し立憲体制への改革を進める。
陸軍・海軍を「天皇の軍隊」と規定。
また、軍人に対して、5つの基本道徳や政治に関わらないようにする「軍人勅諭」を発する。
大日本帝国憲法の公布。
天皇大権(天皇の権限)を明記し日本は立憲君主制国家となる。
他にも、内閣制度・府県制・郡制・市町村制なども制定した。
当初の帝国議会は、藩閥政治派と政党政治派で対立が起こっていたものの、明治天皇は仲介・調停的な役割に徹した。
国民に対しては「教育勅語」を発して道徳の養成に力を入れる。
列強との同盟と外国との戦争。
外務大臣・陸奥宗光のもとイギリスと日英通商航海条約(1894)を結ぶ。
※この条約は日本初の不平等条約が改正された条約
また、8年後にはイギリスと日英同盟(1902)を結ぶ。
一方、朝鮮半島を巡って清・ロシアと戦争をする。
これらの戦争中は、明治天皇は大本営(日本軍の最高統帥機関)で直接戦争指導をしている。
明治天皇個人としては両戦争に反対していたという
ガーター勲章の授与。
※イングランドの最高勲章
糖尿病の悪化で7月に崩御。
翌年に大喪の礼が執り行われ、京都の伏見桃山陵に埋葬された。