安室奈美恵の名言・格言

安室奈美恵(あむろ なみえ、1977年9月20日 – )は、日本の女性歌手、ダンサーである。

ライブでは2015年4月時点まで、544公演を行い、計約345万人を動員

安室奈美恵の名言・格言
“私は、ひとつのことがうまくいったからといって現状維持しようと守りに入りたくない。リスクを恐れず、現状維持ではないことをあえて選択してでも、常に挑戦し続けたいんです。”
出典More 2010年5月号

“簡単にダメだと折れるのか、それとも「どうにかしてやろうじゃん」と立ち上がるのか。私は後者の方が楽だと思う。”
出典GINGER 2009年6月号

“自分に自信を持つことはすごく勇気のいること。だって、それだけのことをしなきゃいけないから。責任もあるし、責任をとれる自分であるかどうかも不安になっちゃうけど、それも勢いとハッタリが後押しをしてくれる!結果ダメだったとしても、『きちんと尻拭いはします』っていう態度でいないと、何をするにも無理ですよね。やっぱり好き勝手して、逃げちゃいそうな人には誰もついていかないから。”
出典Mina 2008年8月20日号

“母のことがあってからはずっと辛かった。なんでこんなに濃い人生なんだろう。もう仕事も“安室奈美恵でいること”もやめたいと思っていました。だけど、今がどん底だとすれば、これ以上悪くなることはないはず。そう思うと、少しずつ楽になれました。”
出典AERA 2008年5月号

11歳の安室奈美恵

小5の時、沖縄アクターズスクールに通う友達の付き添いで同校へ見学に訪れた際、同校のマキノ正幸校長にスカウトされる。母親と相談の末、月謝が払えないという理由で一度は入校を断念するが、校長に見込まれて異例の特待生として入校、その日から片道1時間半の距離を徒歩で週3日通う日々を送る。入校時は人見知りが激しく引っ込み思案であったが、ほどなくして琉球放送のローカル番組内で行われた『ちびっ子カラオケ大会』に出場し、見事優勝したことで周囲を驚かせた。

当初は女優志望で芝居の稽古などもしていたが、ビデオで観たジャネット・ジャクソンの「Rhythm Nation」のPVに衝撃を受けて以来、歌とダンスに没頭する

15歳の安室奈美恵

アクターズ内で結成されたダンスグループ“SUPER MONKEY’S”のメンバーに選出され、1992年より芸能活動を開始。同年9月に同グループは東芝EMIよりメジャーデビューし、自身はセンターボーカルを担当する。各メディアで積極的にプロモーションを行うが、デビュー当初はヒット作には恵まれなかった。

17歳の安室奈美恵

フジテレビ系『ポンキッキーズ』に鈴木蘭々とのコンビ“シスターラビッツ”として出演し、注目を集める。同年7月にリリースしたシングル「PARADISE TRAIN」からSUPER MONKEY’Sは“安室奈美恵 with SUPER MONKEY’S”へと名義を変更。
同時期に所属プロダクションの社長から松浦勝人(MAX松浦)を紹介される。

18歳の安室奈美恵

1995年1月、松浦のプロデュースによりリリースされたシングル「TRY ME 〜私を信じて〜」が73万枚の大ヒットとなり、ユーロビートのカバーで初のヒットを生み出す。

4月からは日本テレビ系音楽バラエティ『THE夜もヒッパレ』にレギュラー出演。同年リリースのシングル「太陽のSEASON」からCDクレジットが単独名義となり、これが事実上のソロデビュー作となる。

松浦勝人のパートナーであった小室哲哉と出会い、1995年8月に行われたavex dance Matrix ’95 TK DANCE CAMPに出演。同10月にSUPER MONKEY’Sの楽曲を含んだファーストアルバム『DANCE TRACKS VOL.1』が初のオリコンチャート首位を獲得し、オリコン及び出荷ベースで初のミリオンセラーを記録した。
翌週には小室プロデュース第1弾シングル「Body Feels EXIT」をリリースし、同時にエイベックスへレコード会社を移籍。
以降は小室がプロデュースを担当する。

12月にリリースされた「Chase the Chance」は、シングルで初のオリコンチャート首位、ミリオンセラーを記録した。
同曲で『第46回NHK紅白歌合戦』に初出場。同日、『第37回日本レコード大賞』に初めてノミネートされ、「TRY ME 〜私を信じて〜」で優秀作品賞を受賞。

19歳の安室奈美恵

シングル「Don’t wanna cry」、「You’re my sunshine」、「a walk in the park」がミリオンセラーを記録。また若者のファッションリーダーとなり、彼女を真似する女性を指した“アムラー”がこの年の流行語に。

10代の歌手としての記録も次々と塗り替えた。同アルバムは出荷350万枚と当時の過去最高記録を達成。8月には女性アーティストでは史上最年少記録(当時18歳)でのスタジアム公演SUMMER PRESENTS ’96 AMURO NAMIE with SUPER MONKEY’Sを開催。そして大晦日の『第38回日本レコード大賞』では「Don’t wanna cry」で史上最年少での大賞を受賞。

初の写真集『#19770920』も発売

自身が学んだ沖縄アクターズスクールも注目を集め、沖縄出身アーティストの先駆けとなるなど、その人気は社会現象となった。

20歳の安室奈美恵

「CAN YOU CELEBRATE?」はダブルミリオンを突破し、オリコン年間シングルチャート首位を獲得。同時に、邦楽女性ソロアーティスト歴代1位のシングル売上を記録。

10月22日、TRFのダンサー・SAMとの結婚を発表、妊娠3ヶ月であることも明らかにした。

21歳の安室奈美恵

出産のため1年間の産休に入り、育児に専念。この間にベストアルバム『181920』をリリース。同5月19日、長男を出産。12月には復帰シングル「I HAVE NEVER SEEN」をリリース。『第49回NHK紅白歌合戦』では1年ぶりに公の前に登場し、前年と同じく「CAN YOU CELEBRATE?」を歌う。歌唱中、会場からの暖かい声援と拍手に感極まり涙を流した。

22歳の安室奈美恵

シングル「RESPECT the POWER OF LOVE」の発売日であった3月17日に安室奈美恵実母殺害事件が起こる。事件のショックでしばらくは活動休止状態になると見られていたが、3月29日の『HEY!HEY!HEY!』の生放送で仕事を再開。

25歳の安室奈美恵

SAMと離婚。当初、親権はSAMに渡ったが、養育権は安室が持ち、2005年には親権も移りシングルマザーとなる。

SAMと離婚後、両腕にタトゥーを入れた。
左腕には以下の英文と、その下に大きくHARUTOと刻まれている。

JUN.30 in 1950
my mother’s love live with me
Eternally in my heart
R.I.P
MAR.17 in 1999

1950年6月30日(母親の生年月日)
母の愛は私と一緒に生きている
私の心の中で永遠に
rest in peace(安らかに眠れ)
1999年3月17日(母親が亡くなった日)

右腕にはバーコードと自身の生年月日が刻まれていたが現在は消している。右腕内側に新たに『Love Peace World』と刻まれている。

「Wishing On The Same Star」をリリース

28歳の安室奈美恵

MTV Video Music Awards Japan 2005』にパフォーミング・アーティストとして出演し、Best R&B Video(最優秀R&Bビデオ賞)(受賞曲「GIRL TALK」)、Most Impressivle Performing Artist In Asia(アジア最優秀パフォーミング・アーティスト賞)の2冠受賞。史上初の4年連続受賞の快挙を達成

「WANT ME, WANT ME」をリリース

32歳の安室奈美恵

6月には台湾公演、7月には上海で自身初となる中国公演を開催し、海外公演を初映像化したライブDVD『namie amuro BEST FICTION TOUR 2008-2009』が初動売上記録で女性アーティスト歴代1位となり9年ぶりに記録を更新。

12月にはアルバム『PAST < FUTURE』をリリース。10代・20代・30代の各年代でのオリジナルアルバム首位獲得はソロアーティスト初の記録となり、アジア5ヶ国・地域での首位獲得は日本人女性アーティスト史上初の快挙となった。 https://www.youtube.com/watch?v=7prEbLsc_r4&index=38&list=PLFF694F8807AF5302

35歳の安室奈美恵

デビュー日である9月16日には、地元・沖縄で一夜限りの20周年アニバーサリーイベントnamie amuro 20th ANNIVERSARY LIVE in OKINAWAを開催する予定だったが、台風16号の影響により中止となった。
年末、15年振りとなる自身初の全国5大ドームツアーnamie amuro 5大ドーム TOUR 2012 ~20th Anniversary Best~を開催。5会場8公演で約34万人動員となり、動員数・公演数ともに女性ソロアーティスト歴代トップとなる

桜井和寿の名言・格言

桜井 和寿(さくらい かずとし、本名:櫻井 和寿(読み同じ)、1970年3月8日 – )は、日本のミュージシャンであり、Mr.Childrenのボーカリスト、ギタリストである。

東京都練馬区出身。アマチュア時代から一貫してMr.Childrenの楽曲の殆どの作詞、作曲を手掛けている。 2004年からはBank Bandとしても活動
トータルセールス(CD総売上枚数):5,861.6万枚(2015年2月時点・歴代2位)

桜井 和寿の名言・格言

何かのせいにするのではなく、発想を転換することでポジティブに、明るくなれる。それを提案みたいな感じでやっている。それが今のミスターチルドレンの音楽だと思う。

昨日の自分より、今日の自分を好きになれれば良いと思う。

幸福になりたい”っていう言葉を使っているうちはいつまでも幸福じゃないんじゃないかと。でも至福は至っているわけで、今ある状態で自分は十分に幸せだと思えていることが至福ということですね。

事件とか悲しいニュースの責任追及をするのではなくて、自分の内面にもその責任や原因の一端があるんじゃないかということを常に意識していたい。

人は簡単には理解しあえないそれでも僕は伝えたい

こうやって明かりを消すことによって普段は見えない何かが、見えてくると思うんです。

『あきらめる』とは『明らかに見極める』。

僕は笑者でありたい

幼少期の桜井和寿

桜井和寿 1970年3月8日東京に生まれる

勉強はできなかったが、親は勉強については文句を言わず、
教育方針は、「何か一つみんなより自信を持って
優れていると言えるようなものを身につけろ」ということだったという。

体育だけは一生懸命。
音楽は女がやるものだと思い込んでいて、
音楽の時間に絶対に歌わない姿勢を貫き、
音楽の先生から往復ビンタ20発ぐらいくらったけど、
それでも歌わなかったという。

「ROCKIN’ON JAPAN1995年2月号:桜井和寿インタビュー」より

13歳の桜井和寿

中学校時代
悪いグループに入っていたが、
「万引き」など命令する番長が嫌で、グループを抜けるために、
交番に行き「僕は万引きをしております」といい、
それで家に知られて、悪グループから抜けた。

その頃にギターを始めた。
友達のお兄さんがエレキギターを持っていて、「かっこいいなあ」と思った。姉が使っていないフォークギターをゆずりうけた。
「禁じられた遊び」を単音で弾いていたら、お姉さんがバカにして、
「あんた天才じゃないの?」と言ったのを真に受けた。

16歳の桜井和寿

高校受験を考える中3になった時、軽音楽部がある高校を選んで受験。
関東高校(現聖徳学園高校)に入学
入学後すぐにできた彼女がキーボード、現在MrChildrenメンバーの中川がベース、田原がギター、桜井がギター&ボーカルでバンド「Beatnik」結成(後のMr.Childrenとなる)。初のオリジナル曲「クリスマスナイト」を製作

彼女ができたことですごく自信になり、
自分の性格や考え方がガラっと変わったという。

「音楽と彼女の二つのことだけを一生懸命やった」

高校1年の時から「プロを目指してやって行こう!」と思い、オーディションにテープを送っていた。

田原と彼女めぐって三角関係になり、中川が仲裁したこともあるという

18歳の桜井和寿

1988年(昭和63年)、コンクールのテープ審査を通過したがライヴ審査前にドラマーが脱退。田原、中川の中学時代の同級生で他のバンドで活動していた鈴木英哉の元へ桜井が審査用の曲が入ったテープを持ち込み、ライヴ審査当日までという期限付きの約束で代役を頼んだ。後日、正式なバンド加入を依頼して鈴木が承諾。現在のメンバーとなる

19歳の桜井和寿

1989年1月1日から「Mr.Children」に改名
当時4人は「チルドレン」という言葉の響きを気に入っていて、イギリスのバンド「THE MISSION」が1988年に発売したアルバム『CHILDREN』や、バンド「The Railway Children」、世界中の飢えや貧困に苦しむ子供を写したロバート・キャパの写真集『戦争・平和・子どもたち』など、好きなものに「チルドレン」含む名称が多かった。ただ、大人になった後も「Children」のままでは如何なものかと思い、正反対の「Mr.」を付けて年が明けた1989年1月1日から使用した。

21歳の桜井和寿

11月に小林武史と初対面。後に小林はMr.Childrenとの初対面時を「(雰囲気が)暗いし、演奏も決して上手くは無かった」と回想している。
桜井は「曲の事に関して『こんなにシビアな人は鬼か!』と思ったことも」
と語る。

22歳の桜井和寿

アルバム『EVERYTHING』で「Mr.Children」としてメジャーデビュー。

この頃から100万枚売るというのが心の中にあったという。
ブレイクするきっかけはタイアップにあると考え、
レコード会社に「タイアップ取ってくれ」とも言ったという。

タイアップの世の中だった時代、「『だったら15秒の中で俺も勝負してやる』」と、秒数測って曲を書き、15秒の中で活きる曲をプールしておいたという。

初のシングル局「君がいた夏」
セカンドシングル「抱きしめたい」をリリース

23歳の桜井和寿

ブレイクするきっかけとなった、4thシングル「CROSS ROAD」をリリース

この頃についての発言

「『今はミスターチルドレンが好き』なんつってる人がいても、
どうせ飽きるんだったら、新しいとこ(今までと違う年代のリスナー)を目がけてやった方がいいじゃんっていうのは思いますよね」

「やっぱり消費されて行くのはしょうがないし、でも誰かの気持ちの中に残るだろうっていう風には信じてやってますけど」

31歳の桜井和寿

優しい歌
youthful days
リリース

TBSの開局50周年プロジェクトとして坂本龍一が呼びかけ、地雷撲滅を訴えかけるチャリティー企画ユニット・N.M.L.に参加。テーマ曲「ZERO LANDMINE」が発売され、CDの売り上げは地雷除去のために全額寄付

32歳の桜井和寿

君が好き

Any

HERO

リリース

7月小脳梗塞により入院加療中と報道され、約半年の間ライブツアーを含めた音楽活動を全て休止。
12月21日、病気療養から復帰、音楽活動を再開し、一夜限りのライブ「TOUR 2002 DEAR WONDERFUL WORLD IT’S A WONDERFUL WORLD ON DEC 21」を成功させる。