オスカー・シンドラー(Oskar Schindler、1908年4月28日 – 1974年10月9日)は、メーレン(当時オーストリア領、現チェコ領)生まれのズデーテン・ドイツ人の実業家。第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身の工場で雇用していた1,200人を虐殺から救った。
本人にまつわる名言
「たった一つの命を救うものは、全世界を救うのである」
助けたユダヤ人から送られた名言である。
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幼少期のオスカー・シンドラー
1908年4月28日、現在チェコのスヴィタヴィに生まれた。
シンドラー一家の信仰はカトリックだったが、シンドラー自身は宗教に関心がなく、カトリックの影響はほとんど受けることはなかった。
近隣のユダヤ人家族の子どもたちは、彼の遊び仲間だった。
16歳のオスカー・シンドラー
国民学校に入学し、さらに実科学校、上級実科ギムナジウムと進んだが、成績証明書の改ざんを行ったことで1924年に退学処分となった。
後に学校へ戻る事を許されたが、クラスメイトから「詐欺師シンドラー」と呼ばれる。
学業優秀ではなく大学進学もあきらめている。
19歳のオスカー・シンドラー
電機会社で働いたが、1927年に一旦辞職してシェーンベルク(現・チェコのシュムペルク)のオートバイ学校へ通った。
20歳のオスカー・シンドラー
在学中にチェコスロバキア陸軍の徴兵を受けた。また1928年5月からしばしばオートバイ・レースに出場。
1928年エミーリエと結婚。
23歳のオスカー・シンドラー
軍の勤務を終えた後、シンドラーはブリュンの電機会社に復職したが、この会社は1931年に倒産してしまった。シンドラーはこの後一年ほど失業者になった。シンドラーの父の農業機械工場も倒産していたため援助を受けられず、結局はエミーリエの父に援助してもらって生活を耐え凌いだ。シンドラーは養鶏場を買い、またプラハの銀行の代理人の仕事に就き、ブリュンの商人に国有財産を売却する仕事に携わる。
25歳のオスカー・シンドラー
妻エミーリエとの間に子供はできず、シンドラーは父の秘書だったアウレリエ・シュレーゲル(Aurelie Schlegel)を愛人にして、彼女との間に私生児2人をもうけている。
27歳のオスカー・シンドラー
ドイツ民族主義的な政党に入党した。ここを通じてヴィルヘルム・カナリス提督率いるドイツ国防軍諜報部「アプヴェーア」と接触し、その諜報員として活動することになった
30歳のオスカー・シンドラー
彼の諜報活動が露見した時、チェコの鉄道内部の秘密情報を漏らしたということで、大叛逆罪の罪で死刑の宣告を受ける。
しかし、1938年10月にドイツのズデーテン併合があったため、ドイツによって刑の執行は中止された。
31歳のオスカー・シンドラー
没収前ユダヤ人の所有になっていた、落ちぶれた琺瑯(ホーロー)容器工場を買い取る。彼は、ユダヤ系ポーランド人会計士イツァーク・シュテルンの助言を受けながら、闇商売で資産を拡大していく。
クラクフ近くにあるザプロヴィツの小さな工場は、ドイツ軍の厨房用品を製造して急激な成長を遂げた。
工場はわずか3カ月で250人のポーランド人労働者を使うようになり、その中には7人のユダヤ人労働者もいた。
シンドラーは、快楽主義者で遊び人で、金を湯水のように使い、プレイボーイだったという。
34歳のオスカー・シンドラー
彼の工場は1942年末までに、巨大な琺瑯容器工場にして、軍需工場に成長していった。 45,000 m²の敷地に800人近い労働者がここで働いたのである。その中にはクラクフ・ゲットーのユダヤ人370人もいた。
35歳のオスカー・シンドラー
クラクフのゲットーは解体され、ユダヤ人たちは、クラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ移送された。
シンドラーは、残忍な強制収容所所長の親衛隊大尉アーモン・ゲートが、彼の飲み仲間でもあったことから、彼の工場にユダヤ人労働者のための小屋を建てさせてくれるようにと説得した。
この秘密交渉で、彼はそのユダヤ人労働者に比較的快適な生活条件を提供し、貧弱な栄養状態を補ってやることが出来るようになった。このための食糧は、シンドラーがすべて闇の市場で調達してきた。収容所の親衛隊の警備兵たちは、工場の敷地内への立ち入りは禁止されたのである。
シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、彼の工場が“軍需工場”ということでポーランド占領のドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたことである。
労働者が工場の生産ラインに不可欠だと主張することで、雇用者が絶滅収容所へ移送される危険がせまった時にも特例措置を働きかけた。
36歳のオスカー・シンドラー
1944年末、ソビエト連邦の赤軍の侵攻により、すべての収容施設の解体を余儀なくされ、
ここにいた20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。
シンドラーは、ドイツ軍の司令官から、彼とその妻がズデーテン地方のブリュンリッツ(現・チェコのブルニェネツ Brněnec)で新たに手に入れた工場で「軍需物資の生産」を継続し、そのための労働者を連れていくという許可を得た。
その労働力には、プワシュフの収容所からかなりの大人数が選ばれ、総数で800人にもなった。そのうち700人がユダヤ人、300人が女性だった。
ところが女性たちをのせた列車は強制収容所アウシュヴィッツに進行することとなった。
シンドラーは、グロース・ローゼンの収容所から人々を助け出しに駆けつけ、彼らを助け出すことに成功した。シンドラーが、ユダヤ人1人当たり1日につきゲシュタポに7マルク支払うことを約束し、彼の秘書がアウシュヴィッツで女性たちを更に移送する交渉を行ったのである。これは、絶滅収容所の運用期間中において最も多くの集団が出て行くことを許されたケースである。
オスカーとエミーリエのシンドラー夫妻は、アウシュヴィッツの収容施設から加えて120人のユダヤ人を救出した。
37歳のオスカー・シンドラー
53歳のオスカー・シンドラー
貿易商の仕事をしたのち、ドイツに帰国した。ドイツでは、セメント工場の仕事をし、これもまた1961年に倒産に追い込まれた。
から次に事業に失敗し、資金繰りで奔走しているシンドラーの噂は彼が救ったユダヤ人にも伝わる。彼らは、シンドラーをイスラエルに招待した。
この時点から、オスカー・シンドラーの「二重生活」が始まる。つまり、年の半分を彼が隠居生活をしているフランクフルトで過ごし、他の半分をエルサレム在住の、彼が救ったユダヤ人たちの下で過ごすということである。
66歳のオスカー・シンドラー
1974年、ドイツのヒルデスハイムで亡くなる。彼の墓は彼自身の希望により、エルサレムのローマ・カトリックの教会墓地にある。
時とともにシンドラーの事績はドイツやポーランドでも次第に忘れ去られていった。彼の名が一般にも広く知られるようになったのは、1982年にオーストラリアの作家トーマス・キニーリーが著したノンフィクション小説『シンドラーの箱船』がベストセラーになり、これをスティーヴン・スピルバーグ監督が映画化した1993年のユニバーサル映画『シンドラーのリスト』が世界的な興行成功を収めたことによる。