幼少期の田畑政治

12月1日に静岡県浜名郡浜名町成子(現在の浜松市中区成小町)で生まれる。

実家は裕福な造り酒屋で、別荘を持っていた。

しかし、祖父・父ともに病気(結核)で亡くなっていて、田畑自身も若いときに医師から30歳ぐらいまでしか生きられないと言われていた。

小学校で大好きだった水泳を始める。

18歳の田畑政治(1916年)

18歳の時に浜名湾游泳協会の設立に関わる。

静岡県西部地区における水泳の競技力の向上・普及を目的に活動するアマチュアのスポーツ団体。

田畑は浜松中学校(現在の浜松北高校)の4年生の時に、盲腸炎と大腸カタルに罹り水泳選手になる夢をあきらめることになる。
しかし、田畑は水泳をあきらめることができず、指導者の道を歩むことに決めた。

そして、その第一歩として行ったのが浜名湾周辺の中学校水泳部を統括する「浜名湾游泳協会」の設立であった。

中学卒業後は第一高等学校(現在の東京大学教育学部)を経て、東京帝国大学法学部政治学科をに通い、休みがあるたびに浜名湾に戻って水泳の指導をした。

26歳の田畑政治(1924年)

朝日新聞社に入社。

会社では政治部に配属され政治家とも交流を持つようになる。
※鳩山一郎(戦後に第52・53・54代総理大臣となる)にも目をかけられるようになる

一方、水泳の指導者として「大日本水上競技連盟(現・日本水泳連盟)」の創立に参画する。

50歳の田畑政治(1948年)

日本水泳連盟の会長に就任。

この年に開催されるロンドン五輪の出場を目指していたが、戦後すぐということから日本はドイツとともに参加を断られる。この状況に対して、田畑は日本代表の実力を見せるべくロンドン五輪の開催日時に合わせ日本選手権を開催した。
この思い切った開催の影響もあり、翌年には国際水泳連盟に日本を復帰させた。

この年に朝日新聞の代表取締役にも就任(1952年には同社を退社)

54歳の田畑政治(1952年)

ヘルシンキ五輪で日本選手団団長を務める。

戦前に開催されたベルリン五輪以来の出場であったが、競泳は銀メダル3個の成績であった。

一方、田畑は帰国後に東京でオリンピックを開催できるように都知事や政府に働きかけ、1964年の東京五輪開催を実現させる。

64歳の田畑政治(1962年)

日本オリンピック委員会(JOC)会長と選手強化対策本部常任顧問を辞任。

第4回アジア競技大会がインドネシアで開催される。
しかし、この大会はホスト国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否したことで、国際オリンピック委員会(IOC)から正規の大会ではないと通告される。
※インドネシアが共産諸国やアラブ諸国との連携強化のために、台湾(中国と関係が悪い)やイスラエル(アラブ諸国との中東における宗教問題)といった政治問題で拒否した。

日本でもこの大会への参加の有無が話し合われたがJOCは出場を決定する(インドネシアとの関係悪化を危惧)。
しかし、大会後に日本や他国から無責任な参加として捉えられ、田畑はその責任を負い会長を辞任する。

以後、田畑は組織員会の委員として活動することになります。

66歳の田畑政治(1964年)

東京オリンピックの開催。

日本は開催国であったが、競泳で獲得したメダルは銅メダルの1個だけであった。

この大会の聖火リレーは田畑の考えのもと、ヤンゴン(ミャンマーの旧首都)、バンコク、クアラルンプール、マニラ、の香港(当時、英国統治下)、台北、そして返還前の沖縄を回って日本にやって来た。聖火台に火を灯す最終ランナーに選ばれたのは、広島に原爆が投下された1945年8月6日に生まれた当時19歳の坂井義則さんであった。平和を願っている日本の姿を世界に見てもらおうとしたと言われている