織田信長の名言・格言

織田信長

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。

尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、力をつけ、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑えて戦国乱世の終焉に道筋をつけた。

織田信長の名言・格言

理想を持ち、信念に生きよ。
理想や信念を見失った者は、
戦う前から負けているといえよう。
そのような者は廃人と同じだ。

必死に生きてこそ、
その生涯は光を放つ。

組織に貢献してくれるのは「優秀な者」よりも「能力は並の上だが、忠実な者」の方だ

いつの時代も変わり者が世の中を変える。異端者を受け入れる器量が武将には必要である。

人間の50年の生涯は儚いものだ。死なない者は存在しない。

幼少期の織田信長

1534年5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として誕生。

母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。『信長公記』に拠れば、幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。

14歳の織田信長

1548年、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた。
翌年、信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。
また同年には、近江国の国友村に火縄銃500丁を注文したという。

36歳の織田信長

1570年4月、信長は度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍金ヶ崎で浅井氏離反の報告を受ける。挟撃される危機に陥った織田・徳川連合軍はただちに撤退を開始し、殿を務めた池田勝正・明智光秀・木下秀吉らの働きもあり、京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長は先頭に立って真っ先に撤退し、僅か10名の共と一緒に京に到着したという。

信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙。並行して浅井方の横山城を陥落させつつ、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)

39歳の織田信長

武田信玄の病死により、進軍される危機を回避。

1573年7月 再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所に立て籠もったが信長は義昭を破り追放し、これをもって室町幕府は事実上滅亡

越前国を攻め、朝倉義景を自害させ、越前国を支配下に。

小谷城の戦で、浅井長政を自害させ近江国を支配下に。
(長政に嫁いでいた妹のお市の方と、その娘茶々(淀殿)、初、於江与は落ち延びる)