金栗四三の名言・格言

金栗四三

明治から昭和期のマラソン選手で指導者。日本最初のオリンピック選手(1912年ストックホルム/1920年アントワープ/1924年パリ)

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「勝っても、負けても努力して後れても決して恥とする処ではなく男子の愉快とする処」

「しかれども失敗は成功の基にして、また他日をその恥をそそぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ」

「運動の基調となる体格の点についての根本問題として、私は夫人の運動を是非とも奨励したいと思っている」

「たとえ小さい人であっても、努力することによって、日本一、世界一になれるといういい見本になれ」

19歳の金栗四三(1910年)

1910年(明治43年) 熊本県立玉名中学(現熊本県立玉名高校)から東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した。

当時の東京高等師範学校の校長は嘉納治五郎であった。四三は嘉納校長から薫陶を受けることになる。

21歳の金栗四三(1912年)

1912年(明治45年) 第5回オリンピック(ストックホルム)に日本最初の代表選手として三島弥彦とともに参加。マラソンに出場したが疲労のため途中棄権した。

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玉名市ホームページより

23歳の金栗四三(1914年)

第一次世界大戦ぼっ発により、1916年に開催が予定されていた第6回オリンピック大会(ベルリン)は中止となった。四三は、選手としてのピーク年齢の時期に無念の事態となった。

26歳の金栗四三(1917年)

1917年(大正6年) 独協中学に移り、マラソンや駅伝の普及に一層力を尽くすようになった。
このころ、日本初の駅伝『奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走』を企画実行した。

29歳の金栗四三(1920年)

1920年(大正9年)2月14日 第1回の『東京箱根間往復大学駅伝競走』を企画実行した。
現在の『箱根駅伝』であるが、最優秀選手に贈られる「金栗四三杯」にその名を残している。
同年 第7回オリンピック(アントワープ)に、日本代表選手として参加。マラソン競技に出場し16位で完走。

31歳の金栗四三(1922年)

1922年(大正11年)5月21日 『七大学駅伝競走』を福島県須賀川市で開催。この時、早稲田大学からは「河野一郎」「河野謙三」らが参加している。「河野一郎」は戦前戦後の政治家で、後の河野太郎外相の祖父。
大会前日の夜、金栗四三は「マラソンと体育」という題で講演を行い、「正しく練習する」ことの重要性と「女性の体育」の重要性を説き、満場の聴衆は感銘を受けたという。

『運動の基調となる体格の点についての根本問題として、私は婦人の運動を是非とも奨励したいと思っている』

33歳の金栗四三(1924年)

1924年(大正13年) 第8回オリンピック(パリ)にも日本代表選手として参加。マラソン競技に出場したが、32km付近で意識不明となり完走はならなかった。
これ以降、四三は競技人生から引退し、後輩の指導に本格的に取り組むようになる。

41歳の金栗四三(1932年)

日本が1940年の東京オリンピック開催に正式立候補。四三は恩師嘉納治五郎からの要請を受けて上京。十文字高等女学校に所属し、オリンピック招致活動に協力するようになる。