江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。脱藩後は志士として活動し、倒幕、明治維新に大きな影響を与えた坂本龍馬
「日本を今一度 せんたくいたし申候」
「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」
などの名言を残した。
江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。脱藩後は志士として活動し、倒幕、明治維新に大きな影響を与えた坂本龍馬
「日本を今一度 せんたくいたし申候」
「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」
などの名言を残した。
1835年 土佐藩郷士(下級武士)坂本家に父・八平、母・幸の間の二男として生まれた。
母・幸と死別
楠山塾を退塾後に三姉の乙女が武芸や学問を教えた。
日根野弁治の道場へ入門し小栗流和兵法を学ぶ。
1853年
剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場(小千葉道場)に入門。
剣術修行を始めた直後、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。
自費遊学の龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。
龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている
佐久間象山の私塾に入塾。
兵学などを学ぶ。
1854年
土佐に帰郷。
画家、河田小龍から西洋事情を学ぶ。
河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されている。
また、この時期に徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる。
1855年
父、八平と死別
八平は、龍馬が江戸に剣術留学のため出立するさいには、忠孝を忘れることなく修行に励み、金銭を費やさない、色情に心を移し国家の大事を疎かにすることのないように、という意味からなる三箇条をうたった『修行中心得大意』を送った。
龍馬が死別に際して詠んだとされる句
感涙とどめず、
遥か江戸の地より拝し、
龍馬かならずこの恩に報うべし、
と天地神明に誓ふ。
1858年
千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」伝授される。
剣術修行を終えて帰国。
1861年
土佐勤王党に加盟。
武市の密使として長州へ向かう。
1862年
脱藩をする。
当時、それは自分の家族にも危険がおよぶかもしれない危険な行為だった。
この年に寺田屋事件がおきる
勝海舟に面会し、弟子入りをする。
この出会いが時代が動く大きなきっかけとなる。
1864年
帰国命令を無視して再脱藩。
5月に神戸海軍操練所創設するも、11月には勝が軍艦奉行を罷免。
龍馬ら塾生は薩摩藩邸に保護される。
1865年
薩摩藩の援助により、長崎で亀山社中、後の海援隊を結成。
中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。
長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。
この年に同郷の武市半平太、切腹。
1866年
龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる。
伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷。(寺田屋遭難)
桂に求められて盟約書の裏書を行う。
負傷治療のために妻お龍と共に鹿児島を旅行する。
第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。
将軍・家茂が死去し、慶喜が将軍になる。
土佐藩参政後藤象二郎と会談。亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称。
この時「世界の海援隊でもやりますかな」と言ったとされている。
購入した海援隊運用船いろは丸が紀州藩船と衝突して沈没。御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。
後藤象二郎とともに船中八策を策定。
薩土盟約成立。
大政奉還成立の1ヶ月後、京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される。