59歳の吉田秀雄

官邸で池田首相と広告問題で懇談、次官会議で「広告の文化的・経済的使命」を力説

東芝、電通、民放18社出資の「ビデオリサーチ株式会社」創立
テレビの視聴率調査装置を完成させ、テレビ広告取引の料金の参考となる指標を業界に導入した。

1963年 1月27日逝去

39歳の田中角栄

第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。

戦後初めて30歳代での大臣就任。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 – キー局 – ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことは、その後の田中の飛躍の原動力になった。

34歳の手塚治虫

日本初となる30分枠のテレビアニメーションシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった。
毎週放送のアニメーション番組を実現するために試行錯誤と創意工夫を積み重ねて作り出したさまざまなリミテッド・アニメの手法や様式は、その後の日本のアニメーション制作全般に大きな影響を与えることとなる。

テレビ放送の30分枠用に1本あたり2,000枚分の動画を動画家5名で担当し、一人が1日66枚を仕上げるという苛酷な労働状況が作られることとなった。また作品を破格の製作費で売り込んだことが制作部の首を絞めることになった。手塚がアニメの値段を安くして売り込んだのは、当時の普通のテレビ番組の制作費が50万程度であったことと、安くすればテレビアニメが普及させやすいのと、他の会社と差を付けるためだったと語る。
アニメーターの給料が安いのは手塚のせいであると雑誌で非難されることがあったが、杉井ギサブローは、手塚治虫が独自のリミテッド・アニメの手法を日本に定着させなければ日本は世界一のテレビアニメ生産国にはなっていなかったであろうとも語っている。

40歳の赤塚不二夫

1975年「元祖天才バカボン」が日本テレビ系列で放映開始。
この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌五本、月刊誌七本の同時連載をこなす一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。

22歳の高柳健次郎

静岡師範学校を経て1921年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所卒業。同年、神奈川県立工業学校(現・神奈川県立神奈川工業高等学校)教諭になる。テレビの研究をはっきりと志すのは、1923年、フランスの雑誌に見つけた未来のテレビを描いたポンチ絵(風刺画)を見た時らしい。

27歳の高柳健次郎

ブラウン管による電送・受像を世界で初めて成功した。送像側に機械式のニプコー円板と受像側に電子式のブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。走査線の数は40本だった。「イ」の字はいろは順の最初の文字として選んだ。

38歳の高柳健次郎

1937年、NHKに出向し東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始。しかし1938年に日中戦争が激化するなどで東京オリンピックは中止、テレビの研究も中断させられレーダーなどの研究をすることになる。

47歳の高柳健次郎

日本ビクターに高柳の弟子と共に入社。自身が中心となりNHK、シャープ、東芝と共同でテレビ放送技術とテレビ受像機を完成させた。
産官学共同でテレビ技術の研究開発を行う団体として組織されたテレビジョン同好会の委員長に就任。

31歳のタモリ

芸能界入りする際、4つの戒律を自らに掲げたという[12]。
1、 誰の弟子にもならない
2、組織には属さない
3、頭をなるべくさげずにカネをもうける
4、色紙にサインをする時は、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない
当時の芸は、イグアナのような体芸、反知性を打ち出した中洲産業大学教授、デタラメ言語ハナモゲラなど、他の芸人とは一線を画しており、テレビ的にはキワモノ芸人的存在と考えられていた。
タモリの主なネタ

35歳のタモリ

主婦向けトークバラエティー「だんとつタモリ おもしろ大放送!」がスタート。主婦向けに夜の生活秘話などのきわどいトークで人気を集めるようになった。

徹子の部屋にも主点するようになっていく

 

37歳のタモリ

フジテレビの「夜の顔を昼に」とタモリを昼の帯番組に起用するという荒業に出る。「笑っていいとも」は当初低迷したものの、間もなく人気が沸騰していき、2014年3月31日の放送終了まで31年半続いた長寿番組となった。

この時期、深夜のタモリのイメージを崩さないという目的で深夜バラエティ番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)も放送開始、これもまた、30年以上続く人気番組となっている。

67歳の正力松太郎

日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)
1953年に日本テレビ放送網本放送開始。

普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た。街頭テレビそのものは、試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日テレが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には観衆が殺到した。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。