ウォーレン・バフェットの名言・格言

ウォーレン・エドワード・バフェット(英語: Warren Edward Buffett)

アメリカの投資家、経営者、資産家、慈善活動家。世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハサウェイの筆頭株主であり、同社の会長兼CEO
「喜んで10年間株を持ち続ける気持ちがないのなら、たった10分間でも株を持とうなどと考えるべきですらない。」

「今日や明日、来月に株価が上がろうが下がろうが、私にはどうでもいい。その会社が10年、50年経っても欲しいと皆が思うものを作っているかどうかが重要だ。」

「株は単純。みんなが恐怖におののいているときに買い、陶酔状態の時に恐怖を覚えて売ればいい。」

「私は事業家であるゆえに、より良い投資を行うことができる。そして、私は投資家であるゆえに、より良い事業を行うことができる。」

「私自身は投機は成功しないと思っている。」

幼少期のウォーレン・バフェット

1930年8月30日 ネブラスカ州オマハで生まれる。
父・ハワードは証券業を営んでいた(後に共和党の下院議員を務める)。
バフェットは幼い頃からビジネスを始めた。
祖父からコーラをセットで購入し売りさばいたり、ワシントン・ポストの配達のアルバイト、ゴルフ場のボール拾い、競馬の予想新聞の販売などを行った。

11歳のウォーレン・バフェット

バフェットは初めて株券を購入。
姉のドリスと共にシティ・サービスの優先株を1株38ドルで3株購入し、1株40ドルまで値を戻したところで売却したが、同社の株は長期的に上昇し続け、200ドルになった。
この経験から、バフェットは忍耐を学んだと後に述懐している。

16歳のウォーレン・バフェット

高校3年のときに友人と中古のピンボールを1台25ドルで購入し、それを理容店に置くという商売を始めた。この商売は成功し、最終的には週50ドルの利益を稼ぎ出す。その後、退役軍人にその事業を売却。

21歳のウォーレン・バフェット

ニューヨークのコロンビア大学のビジネススクールで修士号を取得。

バフェットがニューヨークに移る決断をすることに影響を与えたきっかけが2年前にあった。ウォールストリートについて書かれた有名な『賢明なる投資家(原題:The Intelligent Investor)』という本に19歳のときに出会ったのだ。ここで語られている「価値ある投資」の理念が人生を変えた、と彼は語っている。

32歳のウォーレン・バフェット

1950年代末までに、バフェットは7つの会社を立ち上げ、1962年、ミリオネアになった。

バフェットは、自身が所有するすべての会社を合併し、バークシャー・ハサウェイ(Berkshire Hathaway)という繊維会社に投資した。株を買い始め、最終的に経営権を握った。

1960年代後半、バフェットはバークシャー・ハサウェイを繊維業から保険業へ転換させていった。

53歳のウォーレン・バフェット

家具屋のネブラスカ・ファーニチュア・マートを6000万ドルで買収した。バフェットはオーナーが同社の売却を考えていることを知り、オーナーの息子と事前に下交渉をしていた。その上でバフェットは店を訪ねてオーナーの老婦人と直接交渉し、会計の監査や在庫の調査をせずに言い値に対して即払いで購入。

バフェットはバークシャーの繊維部門の再建を断念して工場を閉鎖した。優秀な生え抜きの経営陣と資本を注ぎ込んだが、最後の9年間累計で売上が5億3000万ドル、1000万ドルの赤字であった。当時すでにアメリカにおいて斜陽産業であった繊維業を再建することはできなかった。

58歳のウォーレン・バフェット

コカ・コーラ株を買い始め、最終的に発行済み株式の7%を10.2億ドル相当で購入。
バフェットがコカ・コーラに投資金額は、配当金などを加味すると27年間で約16倍に成長した。年間の利益率は約11%。

86歳のウォーレン・バフェット

バフェットは、自分自身の慈善活動の個人記録を塗り替えた。28億6000万ドル(3000億円以上)相当のバークシャー・ハサウェイ株を、ビル・メリンダ・ゲイツ財団(Bill and Melinda Gates Foundation)をはじめ、数多くの慈善団体に寄付した。彼が寄付した金額は、285億ドル(約3兆円以上)を超えている。