日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。
「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」
などの名言を残した
吉田松陰についての講座の紹介
日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。
「至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」
などの名言を残した
吉田松陰についての講座の紹介
1830年
萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。
1834年
叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となる
大助に跡継ぎがいなかったためと言われている。
1835年
叔父の大助が死亡したので、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾にて学ぶ
1841年
藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。
1850年
アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶため九州に遊学。その後、江戸に出て佐久間象山に師事
1852年
友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、
出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。
ペリーが日米和親条約締結の為に再航。
漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船し、
一緒に渡航することについてを交渉。
しかし、渡航は拒否され、下田奉行所に自首した。
1855年
出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分
1857年
松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。
下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。
1858年
幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。
だが、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。
さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。
結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。
安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて評定所で取り調べの結果、同年10月27日、伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された。享年30(満29歳没)。