東郷平八郎
江戸時代から昭和時代に活躍した日本の武士、海軍軍人。
連合艦隊司令長官を務める。
世界三大提督の1人に選ばれている。
アメリカのニュース誌『タイム』の表紙を飾る初の日本人となる
「東郷は運の良い男でございます。しかるに、必ずや勝利致しましょう。」
「海から来る敵は海にて防ぐべし。」
「咲くもよし散るもよし野の山桜、花のこころは知る人ぞ知る。」
「降伏するのであれば、その艦は停止せねばならない。しかるに、敵はいまだ前進している。」
東郷平八郎
江戸時代から昭和時代に活躍した日本の武士、海軍軍人。
連合艦隊司令長官を務める。
世界三大提督の1人に選ばれている。
アメリカのニュース誌『タイム』の表紙を飾る初の日本人となる
「東郷は運の良い男でございます。しかるに、必ずや勝利致しましょう。」
「海から来る敵は海にて防ぐべし。」
「咲くもよし散るもよし野の山桜、花のこころは知る人ぞ知る。」
「降伏するのであれば、その艦は停止せねばならない。しかるに、敵はいまだ前進している。」
1月27日に薩摩国鹿児島城下加冶屋町二本松馬場(現・県立鹿児島中央高校内)で、父・東郷実友(薩摩藩士)と母・益子の4男として生まれる。幼名は仲五郎。
14歳の時に平八郎実良と名乗る。
薩英戦争に従軍する。
戊辰戦争に従軍する。
新政府軍側として軍艦・春日丸に乗り、阿波沖海戦や箱館戦争で旧幕府軍と戦う。
イギリスへ留学する。
海軍士官として官費で留学する。
イギリスではゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミーや商船学校ウースター協会で海軍技術を学んだ。
また、国際法についても学んだ。
留学中に、西南戦争(1877年)で西郷隆盛が死んだのを聞くと「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と西郷の死を悼んだ
1878年、留学から日本に帰国する。
ハワイ王国でクーデターが起こる。
ハワイ王国のリリウオカラニ女王がアメリカとの不平等条約を撤廃する動きを見せると、アメリカ人がクーデターを起こす。
日本はハワイにいた在留日本人保護のために海軍を送る。
この時、東郷が海軍を指揮しクーデター勢力を威嚇砲撃した。
ハワイは1898年にアメリカにより併合された
日清戦争の勃発。
東郷は巡洋艦「浪速」の艦長として参戦し、豊島沖海戦・黄海海戦・威海衛海戦で活躍し、日本の勝利に貢献した。
連合艦隊司令長官に任命される。
日清戦争後に舞鶴鎮守府初代司令長官となり京都にいたが、ロシアと緊張関係になると海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻される。
そして、第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命された。
元常備艦隊司令長官であった日高壮之丞が健康問題で指揮できなかったことから、当時の将官の中で1番に経験豊富であった東郷が選ばれた。
日露戦争の勃発。
東郷は連合艦隊司令長官として旗艦「三笠」に乗り、旅順口攻撃(2月から5月)や黄海海戦(8月)で指揮をとった。
※旗艦とは司令長官が乗っている軍艦
翌年の5月27日には日本海海戦でロシア海軍のバルチック艦隊と戦い、敵の旗艦を撃沈させるばど日本海軍の勝利に貢献する。
日露戦争の勝利は日本だけでなく、ロシアの脅威にさらされていたオスマン帝国からも喜ばれ、同国民からは英雄として知られるようになった
大勲位菊花大綬章(日本の勲章に中では2番目)ならびに功一級金鵄勲章(武人勲章)を授与。
伯爵を授爵。
大勲位菊花章頸飾(日本の勲章の中では最高位)を受章。
当時の頸飾受章者は裕仁親王(昭和天皇)と閑院宮載人親王(皇族軍人、日本赤十字社の総裁も務める)だけであった。
ロンドン海軍軍縮の開催。
東郷はロンドン海軍軍縮条約に対しては反対であった。
5月30日に死去。86歳。
喉頭癌や膀胱結石、気管支炎の悪化で亡くなった。
6月5日には国葬が行われ、イギリス・アメリカ・フランスなどの国から儀礼鑑が訪日した。