ナポレオン・ボナパルト
18世紀後半から19世紀前半にかけて活躍したフランスの軍人・政治家。(英語:Napoleon Bonaparte)
フランス第一帝政の皇帝。
「じっくり考えろ。しかし、行動する時が来たらなら、考えるのを止めて進め。」
「リーダーとは「希望を配る人」のことだ。」
「勝利は、わが迅速果敢な行動にあり。」
「勝利は、もっとも忍耐強い人にもたらされる。」
「有能の士は、どんな足枷をはめられていようとも飛躍する。」
ナポレオン・ボナパルト
18世紀後半から19世紀前半にかけて活躍したフランスの軍人・政治家。(英語:Napoleon Bonaparte)
フランス第一帝政の皇帝。
「じっくり考えろ。しかし、行動する時が来たらなら、考えるのを止めて進め。」
「リーダーとは「希望を配る人」のことだ。」
「勝利は、わが迅速果敢な行動にあり。」
「勝利は、もっとも忍耐強い人にもたらされる。」
「有能の士は、どんな足枷をはめられていようとも飛躍する。」
8月15日にフランス王国領コルシカ島のアジャクシオで生まれる。
父のカルロ・マリア・ブオナパルテと母のマリア・レティツィア・ラモリーノの4男として生まれる。
もともとコルシカ島はジェノヴァ共和国(現在はイタリアの都市)の島で、島民はイタリア風の生活をしていたが、ナポレオンが生まれる2ヶ月前にフランス王国に売却された。
ブリエンヌ陸軍幼年学校に入学。
父のカルロはもともとコルシカ島の判事であり、コルシカ独立戦争(ジェノヴァ共和国や他国からの干渉と戦った独立戦争)では副官をつとめていた。
コルシカ島がフランス王国領となると、フランス王国側へ転身(寝返る)したためフランスの新貴族として認められた。
父が貴族になったためナポレオンは国費で学校に通えた。
陸軍幼年学校は数学で優秀な成績をおさめた。
パリの陸軍士官学校に入学。
士官学校では伝統である騎兵科ではなく砲兵科を専攻する。
卒業試験は58人中42番目であったが、わずか11ヶ月で全課程を修了する(通常は4年程度)。
卒業後は砲兵士官に任官する。
フランス革命の勃発。
※ブルジョア(市民階級)が起こした王政(当時はブルボン朝)への市民革命
ナポレオンは革命当初は革命に関心が無かった。
しかし、3年後に家が親仏派であったことから、コルシカ島の親英派から弾劾・追放されマルセイユに移住する。
マルセイユではクラリー家の末娘・デジレと結婚する。
大尉に昇進。
フランス革命によってルイ16世やマリーアントワネットらが処刑されると、ジャコバン派の指導者・ロベスピエールが恐怖政治・独裁体制をしいていた。
ナポレオンはロベスピエールにより「貴族士官の亡命」という恩恵を得て大尉に昇進する。
以後、ロベスピエールに従い、王党派(王政支持政党)が起こした蜂起を鎮圧する(トゥーロン攻囲戦)。
この戦いでは、途中から砲兵司令官を務め少佐に昇進している。
テルミドールのクーデターが起こる。
※反ジャコバン派によるクーデター
このクーデターによってロベスピエールが失脚・処刑される。
この時、ナポレオンはイタリア方面軍の砲兵司令官であったが、ロベスピエールと親交があったことから逮捕される。
※処刑はされず降格処分となる
師団陸将に昇進。
パリで王党派が蜂起する(ヴァンデミエールの反乱)。
この蜂起の際に、軍の司令官・バラスと以前からの知り合いだったことから副官に任命される。
ナポレオンは副官として活躍し師団陸将(中将)に昇進。
国外軍司令官ならびに国内軍司令官に任命され「ヴァンデミエール将軍」の異名をとる。
司令官として活躍する。
フランス総裁政府の総裁・バラスによりイタリア方面軍の司令官になる。
当時はフランス革命の影響が欧州各国に広がっており、フランスに対抗しようと半同盟を結んでいた。
このような中、総裁政府はオーストリアを包囲するためにドイツとイタリアの一部方方面から攻略しようとした。
ドイツ側からの部隊が苦戦する中、イタリア方面軍を指揮したナポレオンは連戦連勝を飾る。
翌年にはフランスはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結び、第一次対仏同盟は崩壊する。
イギリスとの戦い。
オーストリアとの戦いでの功績によって、ナポレオンは今度はエジプト(オスマン帝国の支配下)に進軍する。
エジプトは当時イギリスとインドの交易中継地点であったことから、イギリスを抑えるためにはエジプトを支配下に置く必要性があった。
ナポレオンは軍を率いてカイロを落とす。
しかし、エジプトのアレクサンドリア沿岸でフランス艦隊はイギリス艦隊に敗れる(ナイルの海戦)。
翌年にナポレオンはフランスへ帰還するも、イギリスの主導で第二次対仏大同盟が結成された。
第一統領になる。
エジプトから帰還したナポレオンはフランス民衆から歓喜もって迎えられた。
しかし、この時のフランスはイギリスに敗れたこともあり、ブルジョワジー(中産階級)は総裁政府に対して糾弾する声を上げていた。
※総裁政府は5人の総裁が行政を担当した
このような中、ナポレオンはブルジョワジーの期待に答えて総裁の1人であったエマニュエル・シエイエスらとともにクーデターをおこし(ブリュメールのクーデター)、統領政府(執政政府)を樹立する。
ナポレオンは第一統領(行政権・軍の統帥権を持つ)となる。
※第二、第三統領は諮問機関に近い
皇帝への即位。
第一統領となったナポレオンは次第に独裁体制を築いていく。
内政では産業に力を入れるほか、フランス銀行を設立(1800年)し通貨と経済の安定を図った。また、法整備にも力を入れ、ナポレオン法典を公布する。
外交ではイギリス主導の第二次対仏大同盟を打破すべく、オーストリアと戦い勝利し北イタリアを手に入れる。
また、オーストリアとリュネヴィルの和約を結び、第二次対仏大同盟は崩壊する。
そして、ナポレオンは5月に国会の議決と国民投票によって皇帝に即位する。
※ナポレオン1世
以後10年、ナポレオンは欧州を征服するべく戦争をする(ナポレオン戦争)
第三次対仏大同盟の結成。
※イギリス・神聖ローマ帝国(現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア)・ロシア帝国といった欧州各国の対仏同盟
10月にフランス海軍はイギリス本島に上陸しようしたが、ネルソン率いるイギリス海軍に敗れる(トラファルガーの海戦)。
一方、ナポレオン率いるフランス陸軍はウルム(現在はドイツの都市)近郊で神聖ローマ帝国軍に圧勝しウィーンを占領する。
12月にはアウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍に勝利し、オーストリアとプレスブルク条約を結ぶ(第三次対仏大同盟の崩壊)。
第四次対仏大同盟の結成。
※プロイセン・イギリス・ロシア帝国の対仏同盟
10月にナポレオンはイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに勝利しベルリンを占領する。
これにより、フランスは中央ヨーロッパをほぼ制圧した。
外交ではライン同盟を各国と結び神聖ローマ帝国を解体させるほか、11月には欧州各国に対して大陸封鎖令(イギリスと欧州各国との貿易を禁止する)を出す。
フランス帝政が絶頂期を迎える。
大陸封鎖令によりイギリスを封じ込めたナポレオンは2月と6月にプロイセンと戦い勝利し、プロイセンとティルジット条約を結ぶ。
この条約によってロシア帝国を大陸封鎖令に参加させた他、傀儡国家としてワルシャワ公国とヴェストファーレン王国を建てる。
この時点で、ナポレオンはイギリスとスウェーデン以外の欧州各国を支配下に置いた。
大陸で初の敗北。
同盟国であったスペインの内紛に介入し、兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王に就けた。
しかし、マドリードの市民が蜂起を起こしたため、ナポレオンは軍を派遣するがスペイン軍の前に敗北する。
さらに、イギリス・ポルトガル・スペイン連合軍と戦った半島戦争(イベリア半島)でも敗北する。
第五次対仏大同盟の締結。
イベリア半島でのフランス軍の敗北を聞いたオーストリアは反旗を翻し、イギリスと対仏同盟を結ぶ。
しかし、ナポレオンは4月のエックミュールの戦いと7月のヴァグラムの戦いで辛勝し、オーストリアとジェーンブルンの条約を結ぶ(対仏同盟の崩壊)。
ロシア遠征の開始。
ナポレオンによる大陸封鎖令はイギリスだけでなく欧州各国も経済的に困窮した。
そんな中、ロシア帝国が大陸封鎖令を破りイギリスと貿易を再開する。
ナポレオンはロシア遠征を決意し6月に進軍を開始する。
フランス軍はモスクワへ向かって進軍し、ボルジノの戦いなどでロシア軍に勝利し9月にはモスクワを占領。
しかし、ロシア軍がモスクワに火をつけたことで物資が燃え、フランス軍は物資の補給に失敗し撤退を決意する。
フランス軍撤退の知らせを聞いたロシア軍は、フランス軍を追撃し大打撃を与えた。
※国境まで帰還したフランス兵は全軍の1%(約5千人)
フランス軍の敗北を聞いた欧州各国は反フランスに転身し、プロイセンらが第六次対仏大同盟を結成する。
エルバ島への追放。
ロシア遠征の失敗後、ナポレオンは立て直しを図りドレステンの戦い(1813年8月)でオーストリア・ロシア連合軍に勝利したが、ライプツィヒの戦い(1813年10月)で対仏同盟軍に大敗し、ナポレオンはフランスへ逃げ帰った。
1814年に入るとフランスと国境にはオーストリア・プロイセン・スウェーデン・イギリスなどの連合軍が包囲し、3月にはパリが陥落する。
ナポレオンは外交で自信の退位ならびに終戦を図ったが、部下の裏切りによって無条件で退位させられた。
この後、ナポレオンはエルバ島(イタリア半島とコルシカ島の間にある島)に追放された。
再び即位する。
ナポレオンの失脚後、欧州ではウィーン会議が開かれたが各国の思惑が入り乱れてうまく進まなかった。
そんな中、2月にナポレオンはエルバ島を脱出してパリに戻り再び帝位についた。
この時、ナポレオンは武力ではなく話し合いで解決しようと考え、連合国側に講和を提案した。
しかし、連合国側はこの講和を拒否し戦争が起こる。
フランス軍は序盤は優勢であったものの、6月のイギリス・プロイセン連合国との戦い(ワーテルローの戦い)で大敗し降伏する。
ナポレオンは南大西洋のセントヘレナ島へ流され幽閉される。
病状の悪化で死去。
死因は胃がんとされているが、ヒ素による暗殺とも言われている。
遺体は1840年にフランスに送られ、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド廃兵院に葬られている。