38歳の清水次郎長

甲州における出入りにおいて役人に追われ、逃亡先の尾張国名古屋で一帯を取り仕切る保下田久六の裏切りに遭い、女房のおちょうを失う(逃亡先で病死)。
1859年には尾張知多亀崎乙川において久六を急襲し、殺害。

久六を殺害された子分・博徒ネットワークは黙っていない。「昼伏夜行」で次郎長一派は尾張からの脱出を試みる。大政、石松などを連れ、甲州上州、越後、加賀、越前、さらに四国へと長い逃避行。

 

41歳の清水次郎長

1860年、子分の石松が、久六とも縁がある都田吉兵衛たちに殺害される。

都田吉兵衛は50両での手打ちを持ちかけたが、次郎長は受け入れない。

下田金平・吉兵衛らが沼津から清水港へ上陸し、次郎長を急襲するも次郎長は不在。

1861年、駿河国江尻追分において石松の敵である都田吉兵衛を殺害する。

48歳の清水次郎長

東海道筋・清水港の警固役を任命された。
旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦によって死亡した(咸臨丸事件)。
その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬し、翌年には「壮士墓」を建立した。新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないと言って突っぱねたという。

60歳の清水次郎長

1880年頃
清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。
この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援したという口碑がある。

64歳の清水次郎長

「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕される。懲役4年を言い渡されるが、山岡鉄舟や養子とした天田愚庵らの尽力で翌年には釈放される。

天田愚庵が次郎長を釈放するために、世間にその功績を認めさせようと「東海遊侠伝・一名次郎長物語」を出版したのもこの年である。

誕生〜幼少期の勝海舟

1823年江戸本所亀沢町の生まれ。曽祖父・銀一は、越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた盲人だった。江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得て、朝廷より盲官の最高位検校を買官し「米山検校」を名乗った。剣術は直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の勧めにより禅も学んだ。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。蘭学は、江戸の蘭学者・箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたため、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。

24歳の勝海舟

蘭学修行中に辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写した有名な話がある。1部は自分のために、1部は売って金を作るためであった。この時代に蘭学者・佐久間象山の知遇を得た[注 7]。 象山の勧めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた[注 8]。

31歳の勝海舟

ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに海舟も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができた。
その後、長崎海軍伝習所に入門
第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。
この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。

40歳の勝海舟

坂本龍馬と出会う

神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、海舟は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた。この時の塾頭が坂本龍馬。
この後神戸海軍操練所も設立。
海舟は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。
海舟はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだという。 海舟が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期。この時の西郷との出会いが後の無血開城につながったのかもしれない。

44歳の勝海舟 

1866年

軍艦奉行に復帰し、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。海舟は単身宮島大願寺での談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功した。憤慨した海舟は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。

46歳の勝海舟 

1868年

軍の東征が始まると、幕府は勝を呼び戻した。海舟は、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担う。西郷との会談のすえ、江戸城の無血開城を実現

 

晩年の勝海舟 

ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる。
1899年 風呂上がりにブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり、息を引き取った。海舟の最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。

25歳の吉田松陰

ペリーが日米和親条約締結の為に再航。
漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船し、
一緒に渡航することについてを交渉。

しかし、渡航は拒否され、下田奉行所に自首した。

28歳の吉田松陰

1857年

松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。
下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。

29歳の吉田松陰

1858年

幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。

だが、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。

さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。
結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。

19歳の坂本龍馬

1853年

剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場(小千葉道場)に入門。

剣術修行を始めた直後、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。

自費遊学の龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。
龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている

佐久間象山の私塾に入塾。
兵学などを学ぶ。

20歳の坂本龍馬

1854年

土佐に帰郷。

画家、河田小龍から西洋事情を学ぶ。

河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、後の同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されている。

また、この時期に徳弘孝蔵の元で砲術とオランダ語を学んでいる。

21歳の坂本龍馬

1855年

父、八平と死別

八平は、龍馬が江戸に剣術留学のため出立するさいには、忠孝を忘れることなく修行に励み、金銭を費やさない、色情に心を移し国家の大事を疎かにすることのないように、という意味からなる三箇条をうたった『修行中心得大意』を送った。

龍馬が死別に際して詠んだとされる句

感涙とどめず、

遥か江戸の地より拝し、

龍馬かならずこの恩に報うべし、

と天地神明に誓ふ。

28歳の坂本龍馬

1862年

脱藩をする。

当時、それは自分の家族にも危険がおよぶかもしれない危険な行為だった。

この年に寺田屋事件がおきる

勝海舟に面会し、弟子入りをする。
この出会いが時代が動く大きなきっかけとなる。

サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説

ここに提示された平和条約は、懲罰的な条項や報復的な条項を含まず、わが国民に恒久的な制限を課することもなく、日本に完全な主権と平等と自由とを回復し、日本を自由且つ平等の一員として国際社会へ迎えるものであります。この平和条約は、復讐の条約ではなく、「和解」と「信頼」の文書であります。日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します。

過去数日にわたつてこの会議の席上若干の代表団は、この条約に対して批判と苦情を表明されましたが、多数国間に於ける平和解決にあつては、すべての国を完全に満足させることは、不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも、若干の点について苦情と憂慮を感じることを否定出来ないのであります。

この条約は公正にして史上かつて見ざる寛大なものであります。従つて日本のおかれている地位を十分承知しておりますが、敢えて数点につき全権各位の注意を喚起せざるを得ないのはわが国民に対する私の責務と存ずるからであります。

第一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合の信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。

千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗議いたします。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。

千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。

また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。

その2は、経済に関する問題であります。日本はこの条約によって全領土の45パーセントをその資源とともに喪失するのであります。8,400万に及ぶ日本の人口は、残りの地域に閉じ込められしかも、その地域は、戦争のために荒廃し、主要都市は焼失しました。又、この平和条約は、莫大な在外資産を日本から取り去ります。条約第14条によれば戦争のために何の損害も受けなかつた国までが、日本人の個人財産を接収する権利を与えられます。斯くの如くにしてなお他の連合国に負担を生ぜしめないで特定の連合国に賠償を支払うことができるかどうか、甚だ懸念をもつものであります。

しかし、日本は既に条約を受諾した以上は、誠意を以て、これが義務を履行せんとする決意であります。私は、日本の困難な条件の下になお問題の円満な解決のためになさんとする努力に対して、関係諸国が理解と支持を与えられることを要請するものであります。

平和は繁栄を伴うものであります。しかし、繁栄なくしては、平和はありえないのであります。根底から破壊された日本経済は、合衆国の甚大なる援助をえて救われ、回復の途に進むことができました。日本は、進んで国際通商上の慣行を遵奉しつつ世界経済の繁栄に寄与する覚悟であります。そのために既に国内法制を整備致しましたが、今後もその完成につとめ、且つ、各種関係国際条約にすみやかに加入して、国際貿易の健全なる発展に参与する覚悟であります。

この平和条約は、国際経済の面において、このような日本国民の念願を実現しうべき途を開いてはおります。しかし、この途は、連合国側で一方的に閉ざしうることにもなつています。これは、平和条約の本質上、やむを得ないことかも知れませんが、われわれ日本国民としては、すべての連合国が現実にこの途を最大限に開かれるよう希望してやまないのであります。

私の演説を用意してから、今朝インドネシア外相から私に3つの質問をされたことを承知しました。質問は、他の代表もていきされた疑問を解明しようとするものであります。答は「しかり」であります。けだし、それは条約第14条及び第9条の公正な解釈だと思うからであります。この答がこの条約の下における日本の善意に対する他の国の疑問を解決するにたることを希望します。

その3は、未引揚者の問題であります。この平和条約の締結は、34万に達する未引揚日本人の運命について、日本国民の憂慮を新にするものであります。私は、すべての連合国が国際連合を介し、または他の方法によつて、これらなお抑留されている日本人のすみやかなる帰還を実現するために、あらゆる援助と協力を与えられるよう、人道のために切望してやまないのであります。引揚に関する規定が特に起草の最終段階において平和条約に挿入されたことは、日本国民の甚しく満足とするところであります。

上述のような憂慮すべき事由があるにもかかわらず、否、その故にこそ、日本は、いよいよもつて、この平和条約を締結することを希望しているのであります。日本国民は、日本が平等な主権国家として上述のような懸念を除去し、諸国の不満疑惑等を解消するために現在よりも大なる機会をもつことを期待するのであります。

私はこの会議に代表されている諸国がなるべく多く平和条約に署名されることを希望してやみません。日本はこれらの国々と相互に信頼と理解ある関係を樹立し、且つ、相共に世界のデモクラシーと世界の自由を前進させる覚悟をもつものであります。

日本代表団はインドとビルマが会議に連なつていないことを知り甚だ残念に思います。アジアに国をなすものとして日本は他のアジア諸国と緊密な友好と協力の関係を開きたいと熱望するものであります。それらの国々と日本は伝統、文化、思想ならびに理想を共にしているのであります。われわれ日本国民はまず善隣の良き一員となり、その繁栄と発展のために十分貢献し、もつて日本が国際社会の良き一員となることを覚悟するものであります。

中国については、われわれも中国の不統一のためその代表がここに出席されることができなかつたことを最も残念に思うものであります。中国との貿易の日本経済において占める地位は重要ではありますが、過去6年間の経験が示しているように、しばしば事実よりもその重要性を誇張されておることであります。

近時不幸にして共産主義的の圧迫と専制を伴う陰険な勢力が極東において不安と混乱を広め、且つ、各所に公然たる侵略に打つて出つつあります。日本の間近かにも迫つております。しかしわれわれ日本国民は何らの武装をもつておりません。この集団的侵攻に対しては日本国民としては、他の自由国家の集団的保護を求める外はないのであります。之れわれわれが合衆国との間に安全保障条約を締結せんとする理由であります。固よりわが国の独立は自力を以て保護する覚悟でありますが、敗余の日本としては自力を以てわが独立を守り得る国力の回復するまで、あるいは日本区域における国際の平和と安全とが国際連合の措置若しくはその他の集団安全保障制度によつて確保される日がくるまで米国軍の駐在を求めざるを得ないのであります。日本はかつては北方から迫る旧ロシア帝国主義の為めに千島列島と北海道は直接その侵略の危険にさらされたのであります。今日わが国はまたもや同じ方向から共産主義の脅威にさらされているのであります。平和条約が成立して占領が終了すると同時に、日本に力の真空状態が生じる場合に、安全保障の措置を講ずるは、民主日本の生存のために当然必要であるのみならず、アジアに平和と安定をもたらすための基礎条件であり、又、新しい戦争の危険を阻止して国際連合の理想を実現するために必要欠くべからざるものであります。日本国民は、ここに平和愛好諸国と提携して、国際の平和と安定に貢献することを誓うものであります。

日本が前述の安全保障の措置をとりたりとて之をもつて直に日本の侵略の恐怖を惹き起こすべきいわれはありません。敗戦後多年の蓄積を失い海外領土と資源を取り上げられる日本には隣国に対して軍事的な脅威となる程の近代的な軍備をする力は全然ないのであります。この会議の開会式の席上トルーマン大統領も日本が過去6箇年にわたる連合国の占領下に総司令官マッカーサー元帥及びリッジウェー大将の賢明にして好意に満ちた指導を得て遂行した精神的再生のための徹底的な政治的及び社会的の改革ならびに物質的復興について語られましたが、今日の日本はもはや昨日の日本ではないのであります。新しい国民として平和デモクラシー、自由に貢献すべしとの各位の期待を決してゆるがせにしない覚悟であります。

私は最後に過去を追懐し将来を展望したいと思います。日本は1854年アメリカ合衆国と和親条約を結び国際社会に導入されました。その後1世紀を経て、その間2回にわたる世界戦争があつて、極東の様相は一変しました。6年前に桑港に誕生した国際連合憲章の下に数多のアジアの新しき国家は相互依存して平和と繁栄を相ともに享受しようと努力しています。私は国民とともに対日平和条約の成立がこの努力の結実のひとつであることを信じ、且つ、あらゆる困難が除去されて日本もその輝しい国際連合の一員として、諸国によつて迎えられる日の一日も速からんことを祈つてやみません。何となれば、まさに憲章そのものの言葉の中に新日本の理想と決意の結晶が発見されるからであります。

世界のどこにも将来の世代の人々を戦争の惨害から救うため全力を尽くそうという決意が日本以上に強いものはないのであります。

われわれは、諸国の全権がさきの太平洋戦争において人類がなめた恐るべき苦痛と莫大なる物質的破壊を回顧せられるのを聞きました。われわれはこの人類の大災厄において古い日本が演じた役割を悲痛な気持をもつて回顧するものであります。

私は、古い日本と申しましたが、それは古い日本の残骸の中から新しい日本が生れたからであります。

わが国もさきの大戦によつて最も大きな破壊と破滅を受けたものの一つであります。この苦難によつてすべての野望、あらゆる征服の欲から洗い清められて、わが国民は極東ならびに全世界における隣邦諸国と平和のうちに住み、その社会組織をつくり直して、すべての者のためによりよい生活をつくらんとする希望にもえております。

日本はその歴史に新しい頁をひらきました。われわは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります。われわれは平和、正義、進歩、自由に挺身する国々の間に伍して、これらの目的のために全力をささげることを誓うものであります。われわれは今後日本のみならず、全人類が協調と進歩の恵沢を享受せんことを祈るものであります。